体がひどく痛い。
 抑えつけられた体がバイクの重みで悲鳴を上げる。
 目の前でアスファルトの僅かな凹凸を縫って流れる血は俺のモノだろうか。
 いい加減頭も痛くてどうしようもない。
 あーあ、またあいつに怒られる。
 約束を何回反故にすればいいのだと、きっとあいつはそういうだろう。
 勘弁してくれ、今回は不可抗力だ。
 ああ、でも早く行かなきゃあいつが待ってる。
 「いお、り」







 記憶の固執








 何時間待ってもこないから、どうせ家で寝ているかそれとも約束自体を忘れ
 て
 どこかに遊びにでも行っているのだろうと苛々しながら京の家に行った。
 和解したとはいえ、草薙の家に入るのは未だに抵抗がある。
 一人暮らしすればいいとそれとなく薦めたが何年も高校に通っている身分で
 そ
 う我が儘は言えないらしい。
 携帯に連絡して繋がらなかったから寝ている確率の方が高い。
 別に大したようでもない。
 久しぶりに飯でも食うかと、そう話していたのだ。
 別な日に延ばしても良かった。
 そうしたほうが、俺としては気分がいくらか楽になったはずだ。
 俺と京はもう1年近くつきあっていた。
 けれど、最近は週に一度電話すればいい方で滅多に会う機会もない。
 そろそろ別れたほうがいいのだろうかと、俺は思い始めていた。
 俺の京に対する感情が変化したわけではない。
 俺ではなく京が、あいつが俺を避け始めたのだ。
 どこかに誘っても断わられて、そんなことが続けば俺から誘うことはなくな
 っていった。
 かといって、京からの誘いもこない。
 このまま自然消滅だろうかと考えていたら、昨日の夜に京から急な呼び出し
 があった。
 内容は簡潔に、『明日の5時に、いつもの店で』。それだけの電話。
 それだけで通じる仲。
 京が始めた関係に京がピリオドを打つ。
 俺はそれを止める術をしらないから、知らないからただ受け入れようと思っ
 た。
 みっともなく足掻くのだけは嫌だった。
 だから、受け入れようと。受け入れられなくてもせめて京の前だけでは受け
 入れたふりをしようと思った。
 縋り付いたら、懇願したら、そしたら京はまだ俺とつきあっていてくれるか
 もしれない。そんな考えも頭を掠めた。
 けれど、そんなことをして繋ぎ止めたとしてもそんな関係が長く続くはずも
 ない。
 約束の時間、約束の場所に京はどれだけ待っても現れなかった。
 何度も覚悟した。
 今日を逃したら、気丈な自分でいられなくなりそうで、そんな思いで京の家
 を訪れた。
 インターフォンを二回。
 玄関を開けたのは京の母親だった。
 「あら、」
 何度か遊びに来たことのある俺にそれでも少し驚いたような顔をした。
 「あの、京は?」



 病院に連れてこられる間、京の母親は俺に約束の場所に行けなかった謝罪の
 言葉を息子の代わりに述べた。
 そして、京の母親は俄に信じられないようなことも口にした。
 京が、事故にあったということ。
 そして、記憶の一部を失ったということ。
 受け入れがたいその事実はしかし病室のドアを開けたとき否が応なしにつき
 つけられた。
 病室のベットの上で、頭と手首に包帯を巻かれて退屈そうにしている京が俺
 を見て不思議そうな顔をした。
 「着替え持ってきたわよ」
 母親の言葉に京は何でもないような口調で、「MD持って来てくれた?」と
 聞いた。
 「持ってきたわよ」
 母親は試すように俺の腕を掴んで、京の近くに行かせた。
 「京、分かる?」
 俺は、判決を聞かされるような気分で京を見ていた。
 「あー…誰?」
 俺は、からからに渇いてしまった口を開けて縮こまった舌をどうにか動かし
 た。
 自分の名前を口にするのが、こんなに億劫で難しい作業だとは思わなかっ
 た。
 「八神、」
 京の記憶には、俺のメモリが消えていた。



 「あれ?あんた昨日の人だよな」
 俺はコンビニのふくろをどさりと、ベットに着いているスライド式のテーブ
 ルの上に置いた。
 中をみて京が顔を輝かせる。
 「病院食だけじゃ足りないだろう」
 「いいのかよっ、丁度腹へってたんだ」
 俺は近くのスツールに腰掛けた。
 「あ、昨日は悪かったな。あのあとお袋から聞いたよ、あんた俺の友達なん
 だって?」
 友達。
 「八神、だよな。ごめん、思い出せなくて」
 「気にするな」
 「でも、」
 「いいんだ。大した仲じゃない」
 そうだ。大した、仲ではない。
 忘れてしまうくらい、俺の存在はお前のなかで些細なものなのだろうから。
 「俺、実はいろいろ思い出せないことが多いんだ。下らないこととかは覚え
 てるけど、八神の他にも思い出せない人間とかいて、」
 京は眉を寄せた。苦しんでいるように見えた。
 「気にするな。そのうち思い出すだろう」
 京は俺を見てから笑った。
 「あんた、いい奴なんだな」
 お前案外いい奴だよな。
 前に、京に言われたセリフが重なる。
 お互いがお互いを嫌っていた頃、京と俺が話すようになるきっかけを作った
 京の言葉。
 もしかしたら、これは俺に与えられたチャンスなのだろうか。
 もう一度、はじめから京とやり直すための。
 「なぁ、あんたに聞きたいことがあるんだ。俺の恋人の名前を教えてくれな
 いか?」
 「恋人?」
 「もしかしたら片思いの相手かもしれないけど、とにかく俺が好きだった相
 手のこと知らないか?」
 「好きだった相手?」
 「思い出せねぇんだよ、だけど俺どうしてもそいつに会いたいんだ。俺が、
 すごくすごく好きだった相手」
 ああ、チャンスではなかったんだ。
 京にはすでに好きな相手がいて、記憶を失っても、その相手の名前は忘れて
 しまっても、そのときの強い感情だけは今も抱いているのだ。
 「さあ、分からないな」
 「そっか」
 京は残念そうな顔をした。
 自分以外の誰かを思う京をこれ以上見ていたくなくて、俺はスツールから立
 上がった。
 「帰るのか?」
 「ああ、バイトがあるから」
 「なぁ、八神また来いよな」
 俺は、一度小さく頷いた。



 京は待ち合わせの場所に先に来ていた。
 俺を見付けると、少し怒ったような顔をして「遅い」と一言呟いた。
 軽く謝ると、京は歩き出した。
 「俺いちよう記憶喪失じゃん?だからもしかしたら店の場所わかんねぇかも
 しれねえから」そんな理由で呼び出されたのは、京のポケットに入っていた
 メモのせいだった。
 くしゃくしゃの何かチラシの裏に書いたようなメモには日付と店の名前が書
 いてあった。
 京に聞いたら「なんとなく行けるかもしれない」と曖昧な答えだ。
 俺は聞いたこともない店の名前で、俺がいても道に迷ったときに役に立たな
 いのではないかと思ったが、言わずにおいた。
 最近、よく京と出かけることが多い。
 もちろん京は学校に通っているから、午前中に会うことは少ないが午後には
 何かにつけて遊びに誘われる。
 付き合っていたときは一度も来たことの無かったライブハウスだって、俺が
 演奏するといったら喜んでついてきた。
 一度も来たことないくせにライブハウスに入った瞬間「懐かしい」といい加
 減なことを言った。
 「あ、ここだ」
 京が立ち止まったのは少し高級感のある店の前だった。
 「本当にここか?」
 「店の名前はあってるぜ?」
 入ろうとする京を止めることも出来ずに、俺も中に入った。
 待ち合わせをする店ではない。
 ジュエリーショップのようで、ガラスケースにはごちゃごちゃしない程度の
 感覚で綺麗なアクセサリーが飾られている。
 京は黒いスーツを着ている店員の元に行って、取りあえず名乗った。
 すると、
 「草薙様ですね、伝票はございますか?」
 「伝票?」
 「身分証明書でも結構ですよ」
 京はまるで記憶にないのだろう。
 訝しげな顔をしながら免許証を出した。
 それを丁寧な手つきで見た店員は頷いて、ショーケースの下から箱を取り出
 した。
 その水色の小さな箱を開いて、中に収まっていた銀色の重厚感のあるリング
 を取り出した。
 「こちらでよろしいですか?」
 この店の記憶さえなかった京は「はあ」と曖昧に頷いた。
 「こちらにサインをお願いします」
 受領証だろうと思われるものにさらさらと京がサインする。
 紺色の紙袋に入れられたそれを持って店を出る。
 すぐ近くのどこかの店の階段の脇に座って、京は早速ラッピングを解いた。
 中の指輪を見つめる。
 「俺のじゃ、ねえよな」
 「だろうな」
 京が指輪をしたところなんて俺は見たことがない。
 「じゃあ、誰のだ?」
 「さぁな」
 指輪を贈る相手なんて、京がよっぽど好きだった人間だろう。
 俺はもらったことなんてない。
 京はそれを取り出して眺めた。
 「なんか、八神に似合いそう」
 俺は何も言うことが出来ずに、自分がひどい顔をしないように気を遣うこと
 が精一杯だった。
 「この指輪みてると、スゲー好きだったって分かる」
 京が楽しそうに笑った。
 俺はなんだろう。
 なんでここにいるんだろう。
 何のために?
 京は俺なんて見ていないのに。
 「八神?」
 「なんでもない」
 記憶なんて、戻らなければいい。
 戻った途端に、きっと俺は京に捨てられてしまうのだから。



 顔色の悪い八神と別れてから、俺は家に戻って部屋で洋楽を聴きながら指輪
 を眺めた。
 指に入れようとして、それがずいぶん大きなサイズだと気づく。
 大柄な女性だろうか。
 それともピアノでもやっているのだろうか。
 指に嵌めてみようとして、指輪の内側に何か彫ってあることに気がついた。
 「イ、オ、リ、ラブ、フォー、エバー」
 ガツンと頭を殴られたような気がした。
 「イオリ………」
 確かにその名前には覚えがあった。
 口が、その名前を紡ぐ形を知っていた。
 途端に焦燥が募る。
 会わなければならない。
 どうしても。
 会う約束をしていたのだ。
 「イオリっ」
 携帯に飛びついて、その名前を探した。
 しかし、見付けられない。
 八神になら知っているかもしれないと、八神の携帯にかけた。
 歯切れの悪い、寝起きのような声の八神が電話に出た。
 『京?』
 「八神、その…お前」
 イオリって知ってるか?と聞こうとして電話の向こうで「イオリ」という声
 を聞いた。
 「イオリ、電話誰からだよ」という声に俺は思わず携帯を取り落としそうに
 なった。
 途端に全ての記憶が繋がった。
 まるで電流がながれるように大量に記憶が押し寄せてくる。
 あの日、バイクで事故に遭った日に俺は庵と会う約束をしていたのだ。
 『京、どうした?』
 黙った俺をいぶかしんで庵が声を掛ける。
 「…………会いたい」
 『京?何かあったか?』
 「会いたいっ」
 『……………分かった。10時に俺の家にこれるか?その頃には帰れると思
 う』
 「ああ」
 俺は通話を切って、液晶を眺めた。
 八神庵。
 「これ、イオリって読むんだっけ」
 俺はいままで何の鍵だか分からなかった、常に財布に入っていた鍵が、庵の
 家のものであることも思い出した。



 もう終わりだろうなと思った。
 京の様子は尋常ではなかった。
 あの後すぐに抜け出して電車に乗った。
 京に会いたくはないと思いながらも会わずにはいられない。
 京は記憶を取り戻したのだ。
 あの指輪がきっと鍵になったのだろう。
 それとも、本当に好きだった相手にでもあったのだろうか。
 どちらにせよ、俺は捨てられる。
 これで関係は終わりだ。
 縋り付くようなマネが、俺にできるわけがない。
 かといって忘れることもできなのだろけど。
 京のように、いっそ記憶喪失になれたらいい。
 マンションの部屋には電気がついていた。
 合い鍵で京が先に入ってるのだろう。
 やはり記憶はもどったのだ。
 アノブを引くとなんの抵抗もなく開いた。
 「お帰り」
 「ああ」
 京は定位置に座っていた。
 カウンターの長い椅子の一つだ。
 こちらを見ている。
 手には、あの指輪の入っている小箱が握られていた。
 それをぱかぱかと開いては閉じて、こちらを見ている。
 「なんで黙ってた?」
 「何の話だ?」
 俺は責めるような京を見ることができずにソファに腰掛けた。
 すると、京がすぐ近寄ってきて俺の胸ぐらを掴んだ。
 「とぼけるなよ、俺達が恋人だってなんで言わなかった」
 ここまで京が怒るのを見るのは久しぶりだった。
 「さぁな」
 「……………俺が庵のこと忘れたからそれで怒った?」
 途端に不安そうな声を出して俺を見る。
 「そうなのか?」
 「違う」
 確かにショックだった。
 けれど、黙っていたのは捨てられるのが怖かったからだ。
 「じゃあ、俺と別れたかったから?無かったことにしたかったのか?」
 違う。違う。違う。
 俺は言えなかった。
 どうせ振るくせに、どうしてそんな事を言わせようとするのだろう。
 そんな未練の残るような別れ方なんてしたくない。
 京は持っていた小箱を壁に投げた。
 ぶつけられるのかと思って、思わず目を瞑ったら俺の横を通り過ぎて壁に当
 った。
 「……要らなかったな」
 京がそのまま俺の前から立上がって、何事もなかったように帰っていった。
 俺は泣くまいと思った。
 壁に当って跳ねかっえった小箱が足下に落ちていた。
 拾い上げた。
 箱は壊れていた。
 中にはそれでも傷一つついていない指輪が入っていた。
 つまみ上げてみると、中に何か書いてあった。
 「イ、オ、リ」
 俺はそれを握りしめて走った。
 走って、京の背中を見付けてそれでまた走った。
 京の少し手前まで行くと、京が振り返った。
 「庵、」
 「だなんて、」
 「何?」
 「俺だなんて思わないじゃないかっ」
 俺は乱れた息のまま吐き捨てるように行った。
 落とした視線で、ようやく自分が裸足のまま出てきたことに気づいた。
 爪が割れて、血が滲んでいた。
 いつの間に降ったのだろう。雨のせいで路面が濡れていた。
 「全然会おうともしないし、避けてるんじゃないかって、誰か他に好きな相
  手でも出来たんじゃないかって思うじゃないか。俺の名前なんて、覚えて
 もいなくて、顔見ても全然思い出さなかったくせに、それなのに、指輪の送
  り主が自分だなんて、思えるわけないじゃないか」
 「庵」
 涙がこみ上げて、目の前がぼやけた。
 じんと鼻の奥が痛くなって、手で顔を覆った。
 「ごめん」
 謝る声に、よけいに涙が流れた。



 「バイトしてたんだよ」
 京が俺の足を拭きながら言う。
 温かいタオルは気持ちよかった。
 「庵に似合うから買ってやろうと思ったけど、金ないし」
 「親に出してもらえばいいじゃないか」
 京はバイクを買うのも服を買うのも親のカードを使ってきた。
 そういう考えは好きではないが、京は今までそうやってきた。
 「俺の金で買いたかったんだよ」
 拗ねたように言って、タオルを置いた。
 「似合うよ」
 目を見て言われて思わず赤面してしまう。
 「好きなんだよ」
 「京、」
 「庵だけしか考えられないくらい好きなんだ」
 「………ああ」
 「庵は?」











 「………好きだ」











 「明日ライブなんだが来るか?」
 「どこでやんの?」
 「この間連れて行ったところ」
 「ああ、あそこか。あそこでやるとき庵いつも赤い照明当てられるよなー」
 「え?」
 「駅南のライブハウスだと青い照明じゃん。俺あっちのほうが好き」
 「もしかして、見に来てたのか?」
 「まーねー」


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